硝子の犬
骨董市の隅で、その硝子の犬はずっとこちらを見ていた。緑がかった硝子の肌に朝の光が透けて、台の上の古時計や燭台のあいだで、そこだけが小さな水たまりのように澄んでいた。
店主の老人は、値段を訊いたわたしの顔をしばらく眺めてから、「それは売りものじゃあない」と言った。けれど断るでもなく、犬を手のひらに載せて、こちらへ差し出してみせる。
受け取ると、硝子は思いのほか重く、そして冷たかった。耳の先がわずかに欠けている。撫でるうちに、指の腹が欠け目にひやりと触れて、なぜだか懐かしいような心持ちがした。
「昔、これとそっくりの犬を飼っていたひとがいてね」
老人はそれきり黙って、隣の客の相手をはじめた。続きを話す気はないらしい。わたしは犬を台に戻しそびれたまま、市の雑踏のなかに立っていた。
家に帰って、犬を窓辺に置いた。西日が差すと、硝子の胴の奥に小さな気泡がいくつも浮かんで見える。閉じこめられた呼吸のようだと思った。
夜、ふと目が覚めて水を飲みに立つと、月明かりの台所で、犬の影が床に長く伸びていた。影の先は、勝手口の方をじっと向いている。
翌朝、わたしは犬を鞄に入れて、もういちど市の立っていた神社へ行った。けれど老人の店は出ておらず、隣で器を売っていた女のひとは、「ああいうひとは、来る市と来ない市があるから」と笑うだけだった。
それから犬は、わたしの机の上にいる。原稿に詰まって顔を上げると、欠けた耳がこちらを向いていて、まるで何かを聞き取ろうとしているようにも見える。
いつか、あの老人にもう一度会えたら、訊いてみたいことがある。この犬は、誰を待っていたのか。それとも、もう待つのをやめたのか。
答えの代わりに、今日も西日が犬の胴を通り抜けて、机の上に淡い緑の光を落とす。わたしはそれを、返事のようなものだと思うことにしている。
了
二〇二五年八月九日 発表