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火止まる

mew

八月の終わりに、女がキャンバスを一枚持ってきた。新聞紙に包んで、紐は十字にかけてある。結び方が古い。

包みを解くと、庭に三輪車が一台あるだけの絵だった。サドルの塗りが剥げて、下の金属が出ている。うしろに物干し竿。人はいない。二十号にしては描き込みが薄くて、下地の白がところどころ透けていた。

裏を返した。鉛筆で、習作、と書いてある。その下に日付。署名はない。

「これ、額装をお願いしたいんです」

いちばんいいのを、と女は言った。棚から三つ出して並べた。真ん中の、黒っぽい木のを勧めた。絵の方が細いので、太い縁だと呑まれる。

女は右端のを指した。金の、幅の広いやつだった。

習作にはこの額は要りませんよ、と言った。言ってから、余計だったかと思った。

「習作だから、要るんです」

女はそれだけ言って、財布を出した。

*

奥で寸法を取りながら、もう一度裏を見た。日付は十一年前の五月だった。習作、という字は、書き慣れた手つきではない。線の終わりが上に跳ねている。誰かに見せるつもりで書く字ではなく、自分のための覚え書きの字だ。

十一年前の五月に、そう書いた人がいる。

*

ガラスを入れ、裏板を留めて、店の奥の壁に立てかけた。

そこで気がついた。三輪車に影がない。物干し竿にはある。細い影が地面を横切っている。三輪車のところだけ、白いままだった。

描き忘れなのか、まだそこまで行っていなかったのか、下から見ても上から見てもわからない。渡すときに言ってみようかと思って、やめた。

*

引き取りの日に、女は来なかった。

翌日も来なかった。電話番号は控えていない。名前も訊いていない。

*

うちの店は坂の下にあって、上がると人丸神社に出る。人麿を祀ってある。ひとまる、が、ひとどまる、火止まる、と読み替えられて、いつからか火除けの神になった。同じ音が、安産の方にも転んだ。人産まる。

父の代にもらった札が、レジの上に貼ってある。日に焼けて、字はほとんど読めない。それでも剥がしていない。

金の額は、壁に立てかけたまま九月に入った。夕方になると、西日が入って、縁のところだけが光る。絵は逆光になって、三輪車の輪郭しか見えなくなる。

そうすると、影がないことは、わからない。

了

二〇二六年九月一日 発表

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