靄の中で
朝靄の中で、あの人は別の名前で呼ばれた。
名前の主は振り向かなかった。それがその人の名前でなかったからではなく——靄の中では、すべての声が少しだけずれて届く。
男は改札を抜けた。
毎日の動作だった。財布を取り出す。カードをかざす。一歩踏み出す。
でも今朝は、ほんの少しだけ、順番が逆になった。一歩踏み出してから、カードをかざした。改札は鳴らなかった。
なぜ鳴らなかったのか、男は考えなかった。
靄が濃かった。それだけだと思った。
電車の中で、窓に額をつけると冷たかった。
外の景色が白く流れた。建物も線路も、靄の中でおなじ色になる。
男は目を閉じた。
降りる駅を、男は知らなかったわけではない。
毎日降りているのだから。でも目を閉じると、いくつか先なのか、手前なのか、分からなくなった。
こんなことは、初めてではなかった。
ただ今朝は——もうすでに降りていたのかもしれない、と思った。
いつから電車に乗っているのか。降りた駅が別の名前だったかもしれない。
朝靄の中では、駅も、人も、少しずれる。
でも男は鳴らなかった。改札と同じように。
了
二〇二六年六月十二日 発表