西陽
引っ越しの段ボールは三つしかなかった。
宅配便で送って、駅からタクシーで来た。運転手が「このへん、何もないよ」と言った。窓の外は田んぼと、遠くに海が光っていた。
アパートは港のそばにあった。二階建ての、壁が潮風でくすんだ建物だった。階段を上がると廊下の奥に西陽が射していた。目を細めた。
鍵を開けて中に入った。六畳一間。何もない。前の住人の気配もない。窓が西向きで、部屋が全部オレンジ色だった。
段ボールを三つ、壁際に積んだ。座るものがないので窓枠に腰をかけた。港が見えた。フェリーがちょうど出ていくところだった。
ノックの音がした。
開けると、女の人が立っていた。五十代くらい。エプロンをしていた。片手にビニール袋を持っていた。
「隣の中島です。越してきたの?」
うなずいた。
「一人?」
もう一度うなずいた。
中島さんはビニール袋を差し出した。
「夕飯、まだでしょう。おかず作りすぎちゃったから。」
中を覗くと、タッパーが二つ入っていた。
「あの、」
「いいのよ、余りもの。お皿は今度返してくれればいいから。」
ビニール袋を受け取った。タッパーが温かかった。
「お名前は?」
名前を言った。中島さんはうなずいて、それから右手を出した。
握った。
乾いた、小さな手だった。力が強かった。
「ここ、夕方はすごい西陽なの。カーテンがないときついわよ。」
そう言って笑った。
「……はい。」
中島さんは手を放して、じゃあまたね、と言って隣のドアに消えた。
一人になった。
タッパーを開けた。肉じゃがだった。まだ湯気が出ていた。
窓枠に座って食べた。西陽が手元を照らしていた。じゃがいもが崩れるくらいに煮えていた。
食べ終わって、箸を置いた。
右手を見た。
さっきの握手の感触がまだ残っていた。
母の手も、こんなだった。
それだけのことを、思い出した。
了
二〇二六年六月十七日 発表